最大限

昨年10月に死亡した加害少女の母親は2004年から2期8年間佐世保市の教育委員を勤めた。2010年12月に加害少女が給食事件を起こした時には在任中だった。他にもソロプティミスト、ロータリーなど「名士」の集いに登場し、教育・子育てについて話をしている。

 

2004年には小学生による殺人事件が発生し、佐世保市の「生命の大切さを考える」教育が始められた。加害少女は小1から中3までもっとも長期間この教育を受けた一人だ。しかもほとんどの期間、母親も教育委員として参画しているのだ。

 

両親が教育や育児にある「信念」を持つことは、不思議ではない。しかし一般論が具体的な自分の子供の実情にあっているかどうかは、それぞれの親が慎重に判断しなければならない。あるべき育児・教育を提唱するあまり、自分の子供をモデルケースに仕立てあげようとしなかったか。自分の子供が問題を起こした時に、自分の主張や地位を犠牲にするよりも、原因不明な例外的な事件として終わらせる方を選んだのではないか。だとすれば子供の心理とは別に親の心理の問題といえよう。

 

娘が学校で問題行動をおこしても母親が教育委員を勤め続けられたのは、母親の教育姿勢や問題行動の対処が教育行政内部で評価・容認されたことを示す。少女の問題行動もその原因まで深く究明されることはなかった。この不可思議な”対処”が結果的に少女に、問題をおこしても母親=教育委員会が守ってくれるとのサインを与えた可能性がある。

 

佐世保市は今後10年に及ぶ「生命の大切さを考える」教育とは何だったのかを真剣に反省しなければならないが、その際には以上の視点も省略することはできない。「やってきた」ことはしばしば強調しているが、かんじんの足元はどうだったのか。

 

しかし省略したければ好都合な条件ばかりが揃っている。母親は故人となっているし加害少女は起訴されないだろうから細かい究明はない、父親はすでに娘を捨てているし、世間の一部はすでに加害少女を理解不能なモンスターと見る方向に傾いている。誰もが「最大限の努力」をしたが極端な例外だから防げなかった、と言えば良い。それがまた子供たちに「あるサイン」を送ることになるのを承知のうえで。