教育委員

再び、なぜ母親は教育委員を勤め続けられたのか。

 

2004年6月の小学生殺人事件をきっかけに、母親は周囲の期待を集めつつ教育委員に就任し「生命の大切さを・・」運動の中心に座った。

 

被爆地・長崎市長が毎年発する「平和宣言」は一地方都市から世界に向けて発するものだ。そこでは市長は必ず「反戦反核」を宣言しなければならない。

 

だから長崎市と県には独自の「平和教育」の歴史がある。反戦反核につながるこの教育が左翼系の牙城であるのに対し、右翼系は「愛国心」や「道徳教育」で対抗してきた。これは日本のどこでも多かれ少なかれある基本的な構図だろう。

 

この状況のさなかに佐世保市では「生命の大切さを」運動が始まった。平和派と道徳派が勢力拡大を競った結果が学校ごとのプランに出ている。(詳細略)

 

母はおそらく中道左派よりで、父は地元の保守層に太い人脈をもつ。母が教育委員であることは、より多く左派に必要だったが、良いバランスを保ちたい右派にとってもそうだった。

 

小学生が給食に毒物を入れるような事件は「生命の教育」を推進している佐世保では「おこってはならないこと」だった。まして親が教育委員となればスキャンダルは免れない。運動が傷つけば自らも責任を問われ、地域社会の人間関係が乱れる、、そう思う関係者は誰一人として母親の教育委員としての責任を問わず、事件の表面化を妨げ、加害少女へのケアを杜撰にし、今回の惨事の遠因を作った。

 

母親が教育委員を降ろされたくないので娘の事件を表面化させないようにしたのか、それとも自分がやめると娘の事件が表面化すると考えたのかは、どちらでもよい。いずれにせよこれで娘は母親とさらに「一心同体」となったと思われる。