8月15日に何か書いたことがない

 

死者は無言だから神にされて迷惑でも黙っていなくてはならない

死者とは何か

生よりも死は確固としている 

生はさまざまだが死はひとつしかない

終わりのない無・消滅 記憶と哀悼が残る

 

戦死という死

現代の戦争は兵士という任務・職業についた赤の他人同士が殺しあう

国家が兵士をその脳みそから作りあげる

 

戦没の中に異様に多い病死、餓死、特攻玉砕

だが大規模な兵士の反乱はなかった

まったく良い兵隊だったのだ 

・・

 

トロフィー

生前は母親が娘を一手に引き受けていた、しかし自分も忙しい父親にはその方が好都合だった。事件後の父親の対応は、事件以前から父と娘の間に精神的な亀裂があったことを想像させる。

 

加害少女からは逮捕2日目に「お父さんを尊敬しています」という一連の発言があった。世間はこれを父親の詐術だと疑ったが、そうだろうか?

 

その後再婚相手(継母)に娘が殺人願望を明かしていたことが分かった。娘が精神科医以外に告げたのは初めてだった。これだけで「再婚を歓迎」したと言い切れないかもしれないが、継母との関係は非常に悪いわけではない。「新しいお母さんが来て嬉しかった」は嘘ではない。

 

「尊敬」云々は、父親にはわかっていたことだった。娘がこれ以外の態度を見せたことがないのを経験で知っていた。だからわざわざ代理人を派遣して娘の口から言わせることにした。

 

バット事件は3月2日、3月18日の中学の卒業式には父親も出席した。その後のスピーチで娘は、留学することを明かしクラスメートに感謝の言葉を述べた。

 

「一つだけお願いがあって、こんな僕ですけど僕のことを思い出して、僕は何やってるかわかんないですけど、 砂漠歩いてシマウマにのっているかもしれないけど、その辺のことを思ってくれたらな、と思います」

 

またその場にいた父親に対しても、涙声で

「こんな僕ですけど、育ててくれて大変ありがとうございました。これからもよろしくお願いします」

と語って締めくくったと伝えられている。

 

繰り返される「こんな僕」という表現には反省からくる自己否定感情がこもっている。クラスメートには通じなかったかも知れないが、父親にはもちろんその理由は分かっていた。このときの娘の「反省」と逮捕後の「お父さんを尊敬しています」には矛盾はない。

 

おそらくバット事件の前に書かれたと思われる卒業文集には、つぎのように書いていた。

 

「僕が人生で本当のことを言えるのは、これから何度あるだろうか。
人生で、涙ぐむほど美しいものを見ることは、悲しみに声を枯らすことは、 お別れのあいさつを書くことは、好きな人と手をつなぐことは?
数えたら、きっと拍子抜けするだろう。
いま人生を始めたばかりの薄い肩に、どこまでも水平線が広がっている。 あまりにも短い航海の間、僕は何度心から生を叫べるか、正の字をつけて数えておこう。
この人生の幕引きに笑ってお辞儀ができたなら、僕はきっと幸せです」

 

砂漠とシマウマ、水平線と航海、、卒業時のスピーチとこの文章は同じような心境にある。一方には反省がこめられているとはいえ、バット事件の前後で娘の心は一貫している。文集の方では「短い航海」や「人生の幕引き」まで想像し「心から生を叫ぶ」ことや「幸せ」の困難さを予感している。しかもここで娘はたった一人で自分を見つめている。

 

ここで娘が「数えて」いるのは手に入れられなかったもの、失ったものだ。成績はつねにトップクラス、スケート大会で優勝、絵画で受賞、ピアノで入賞と、数々の「トロフィー」も娘に幸せで希望あふれる未来をイメージさせることはできなかった。「本当のことを言えない」、心から喜んだり悲しんだりすることができない、その原因はやみくもな「トロフィー」獲得にあったかもしれないし、自分の特殊な性向によるものかもしれない。それは娘にもはっきり区別することはできなかっただろう。

 

同時期に受賞した自画像には自分の心の奥底を覗きこむような執拗な視線がある。この自画像は娘にとって真実ではあったが「涙ぐむほど美しい」ものではない。しかしそれは「受賞」してしまい、またひとつトロフィーが増えた。

 

母親の死後は、父親は自分の再婚ともからんで娘を「軟着陸」させることを考えた。以前からあった留学の話が具体化し、祖母の籍に移し、バット事件後は精神科に通院させながらマンションで一人暮らしをさせた。「軟着陸」が結局「子捨て」になってしまったのは、もともとあった父親と娘の距離からみて必然だったが、父親の計画的故意であったかどうかは分からない。

 

父が発案したにしても娘も、互いに離れて暮らすことに合意したのだろう。おそらく殆どの場合、両親の発案を娘が拒否したことはなかったのではないか。家庭内で「良い子」でいることは、逆に親の干渉を防ぐ意味で必要だった。だからこの環境の中では親に「心から同意した」か「内心抵抗があった」かは娘本人にも分からなかっただろう。

 

5歳年上の兄にも同じように「教育」したことだろう。娘はそれを見ながら成長した。実年齢よりも背伸びをした状態が幼いころからあったが両親はそれを早熟の才能とみなして、さらに伸ばそうとした。結果として本人には未熟な自尊心、全能感を与え、学校やクラスでは「浮いた」存在になって行く。

 

このことに娘が気づいたのが給食事件だった。両親はじめ周囲はこれが幼い殺意であることを認めたくなかったので、うやむやにした。しかし娘は自分の「全能感」は親が支えていて、親のシナリオに従っている限りにおいて許されているだけだ、ということを理解しはじめた。

 

母親は教育委員の職にあり学校や教員を監督指導する立場だったから、表向き「平謝り」したとはいえ、娘と自分に有利な解決に持ち込むことができた。その後家庭内で娘にどう対応したかは分からないが、親の影響力によって左右される学校や教育の現実を娘が肌で感じなかったはずがない。親をも見切った子供が、親に左右される学校や先生を信じられるとは思えない。こうして給食事件は娘にとって大きな「教育」となった。

 

自分の「トロフィー」は実は親の「トロフィー」ではないか?早熟な子はそれだけ早く気づくものだ。自分でも大きな「トロフィー」を獲得してきた母親は娘の疑念や反抗を理解しつつ上手に回避したようだが、父親はそこまで丁寧ではなかった。トロフィーの獲得は父親にとっては人生において重要なモチベーションであり信念になっていたから、表向き「従順な」娘が内心ではそれを疑い、抵抗している可能性を考えることはできなかった。娘が英語弁論大会で父親を「エイリアン」に喩えたことの背景もここにある。

 

娘はピアノとスケートを父親と共にした。母親はスケート連盟の会長になり、毎年一家で県大会や国体に出場した。今年1月にも国体に出場しているが、出場は最初から決定しているという毎年恒例の行事だった。しかしこの時には父娘の間に口論があり一種目を棄権したと伝えられている。娘にとってトロフィーはもう価値を持たなかったのだろう。

 

たしかに娘はある種の「幼児性」を矯正されないまま成長した。卒業文集の背伸びした表現の裏には、誰にも頼ることができなくなって途方に暮れる幼い感情がある。しかし、競争相手のいない種目で優勝することも一種の「幼児性」の現れではないだろうか。娘がそう気づいた時が「エイリアン」の始まりだったろう。何の価値もないものを大事にする父親はこの時点で、おそらくは学校の先生たちと同様に、「尊敬する」以上でも以下でもないただの無関係な「大人」になった。

 

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娘の「殺したい」願望は、それを持っていない圧倒的多数の人には理解できない。一方で娘の発言からは「生きる」実感のなさと、実感のないまま生きていく未来への絶望に近い不安が読み取れる。今は「心から生を叫ぶ」ため、「生きている」感覚をもちたいために「殺す」ということが究極的にはあり得るのではないか、と考えるしかない。

 

 

教育委員

再び、なぜ母親は教育委員を勤め続けられたのか。

 

2004年6月の小学生殺人事件をきっかけに、母親は周囲の期待を集めつつ教育委員に就任し「生命の大切さを・・」運動の中心に座った。

 

被爆地・長崎市長が毎年発する「平和宣言」は一地方都市から世界に向けて発するものだ。そこでは市長は必ず「反戦反核」を宣言しなければならない。

 

だから長崎市と県には独自の「平和教育」の歴史がある。反戦反核につながるこの教育が左翼系の牙城であるのに対し、右翼系は「愛国心」や「道徳教育」で対抗してきた。これは日本のどこでも多かれ少なかれある基本的な構図だろう。

 

この状況のさなかに佐世保市では「生命の大切さを」運動が始まった。平和派と道徳派が勢力拡大を競った結果が学校ごとのプランに出ている。(詳細略)

 

母はおそらく中道左派よりで、父は地元の保守層に太い人脈をもつ。母が教育委員であることは、より多く左派に必要だったが、良いバランスを保ちたい右派にとってもそうだった。

 

小学生が給食に毒物を入れるような事件は「生命の教育」を推進している佐世保では「おこってはならないこと」だった。まして親が教育委員となればスキャンダルは免れない。運動が傷つけば自らも責任を問われ、地域社会の人間関係が乱れる、、そう思う関係者は誰一人として母親の教育委員としての責任を問わず、事件の表面化を妨げ、加害少女へのケアを杜撰にし、今回の惨事の遠因を作った。

 

母親が教育委員を降ろされたくないので娘の事件を表面化させないようにしたのか、それとも自分がやめると娘の事件が表面化すると考えたのかは、どちらでもよい。いずれにせよこれで娘は母親とさらに「一心同体」となったと思われる。

 

 

衝動、計画

バット事件も「殺すつもりだった」、母親も「殺そうとしたが思いとどまった」と義母に事件の3日前に語ったとの報道。

 

義母との関係は良い。「新しいお母さんが来て嬉しかった」は弁護人の作為ではなく本音だった。この義母が新たな”弁護人”のようだが。

 

「思いとどまった」

自覚があり、自分で避けることができた。気がついたらやってしまっていた、のではなく、自分に「人を殺したくなる」時があることを知っており、殺さない方を選んでいる。

 

が、父親にはやってしまった。おそらく衝動的に。「動機も理由も不明」(父親)のまま少女の妄想はやがて消滅したらしく、数週間後にはすまなさそうな”僕”が同級生や親の前で”別れ”の言葉を述べている。

 

誰にも邪魔されない「独り暮らし」は殺人にくわえて人間解剖の欲望を育てた。精神科に通いながら妄想が膨らむのが自覚されただろう。かつて「思いとどまり」、バット事件以後”反省”モードにあった少女が、この妄想の誘惑と戦わなかっただろうか?

 

短期間に診断が出たのは、少女が治療に”協力的”だったからだろう。バット事件以後の少女は自分の性向を自覚している上に、以前と違ってそのことを隠していない、どころかすらすらと答えている

 

同時に殺意は計画性を伴うようになる。診察で自己を振り返った影響ではっきり目標が見えてきたのではないか。

 

家に誘える友人は被害者だけだった。もちろん被害者には「人を殺したくなる」などと話したことはない。聞いていたら部屋に上がりはしない。一番の友だちにも告げていないのだから、精神科医が把握するまで他の誰にも告げていない。

 

3日前に義母に告げた時には一方ですでに被害者と会う約束を取り付け、ハンマーなどを順次入手していた。「人を殺したくなる」と告げながらも、今まさにやろうとしているとまでは明かさなかった。少女の殆どを支配した妄想によって禁止されたと見られる。少女にはそれがSOSの限界だった。

 

感覚

「体の中を見てみたかった」

 

医学書で見て知っている。医学書の図版は少女のポルノグラフィー。温度も触覚もない2次元の誘惑ともどかしさ。

殺したかったのではなく、実際に「見る」には殺すしかなかった?

  

(以下想像)兄の本か雑誌に載っていた図版、昆虫や動物の体内のイラストか写真、あるいはもっと残虐な何か、、おそらく5、6歳の頃にそういうものを見てしまった。最初の性の分化が始まるころに重なって強い情動を覚え、精神の深いところ、性衝動の隣に根付いた。少女の生育した環境は同時に彼女の妄想が育ちやすい場所でもあっただろう。最後の三ヶ月は理想的に。

 

なぜ人間を?

 

殺人が最大のタブーだから?人間の体内は直接「見る」ことを”禁止”されている。(??・・)

 

自覚はあったのか?抑止できなかったのか?

 

存命中は母親が抑止力だったと見る。

数日前に義母に「人を殺したくなる」という意味のことを告げている。自覚があるし、止めてほしいサインととるべき。殺人願望をまったく隠さないのは精神科でも同じだったはず。だから医師は危険だと判断した。

最大限

昨年10月に死亡した加害少女の母親は2004年から2期8年間佐世保市の教育委員を勤めた。2010年12月に加害少女が給食事件を起こした時には在任中だった。他にもソロプティミスト、ロータリーなど「名士」の集いに登場し、教育・子育てについて話をしている。

 

2004年には小学生による殺人事件が発生し、佐世保市の「生命の大切さを考える」教育が始められた。加害少女は小1から中3までもっとも長期間この教育を受けた一人だ。しかもほとんどの期間、母親も教育委員として参画しているのだ。

 

両親が教育や育児にある「信念」を持つことは、不思議ではない。しかし一般論が具体的な自分の子供の実情にあっているかどうかは、それぞれの親が慎重に判断しなければならない。あるべき育児・教育を提唱するあまり、自分の子供をモデルケースに仕立てあげようとしなかったか。自分の子供が問題を起こした時に、自分の主張や地位を犠牲にするよりも、原因不明な例外的な事件として終わらせる方を選んだのではないか。だとすれば子供の心理とは別に親の心理の問題といえよう。

 

娘が学校で問題行動をおこしても母親が教育委員を勤め続けられたのは、母親の教育姿勢や問題行動の対処が教育行政内部で評価・容認されたことを示す。少女の問題行動もその原因まで深く究明されることはなかった。この不可思議な”対処”が結果的に少女に、問題をおこしても母親=教育委員会が守ってくれるとのサインを与えた可能性がある。

 

佐世保市は今後10年に及ぶ「生命の大切さを考える」教育とは何だったのかを真剣に反省しなければならないが、その際には以上の視点も省略することはできない。「やってきた」ことはしばしば強調しているが、かんじんの足元はどうだったのか。

 

しかし省略したければ好都合な条件ばかりが揃っている。母親は故人となっているし加害少女は起訴されないだろうから細かい究明はない、父親はすでに娘を捨てているし、世間の一部はすでに加害少女を理解不能なモンスターと見る方向に傾いている。誰もが「最大限の努力」をしたが極端な例外だから防げなかった、と言えば良い。それがまた子供たちに「あるサイン」を送ることになるのを承知のうえで。

 

トリガー

小6で給食事件(そののち不登校)、中3の3月にバット事件(中高一貫の高校にはそのまま不登校)、今回は留学の直前(予定は9月)。すべて卒業〜入学の節目の時期にあたる。猫の解剖もテスト期間などに関連があるのではないか?こういうイベントが成績優秀な少女にトリガーになったのでは?周囲は気づいていたのか。

 

今回も「我慢できなくなった」と言っている。いつでも見境なく、というイメージが流布しているが実際はかなり我慢していたのではないか。母親、父親が抑止力だったろう。母親の死後、父親を殴って独り暮らしの自由を獲得し妄想は成長したが留学の期限も迫ってきた。そうなれば級友とはもう会えない。夏休みの最初の週、誕生日の2日前に少女の最高の潮が満ちた。